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『ドイツ零年』 Germania anno zero (1948)

ドイツ零年 [DVD]

作品メモ

『無防備都市』『戦火のかなた』に続くロッセリーニ監督のいわゆる戦争三部作の3本目。
フィルモグラフィー的には、『戦火のかなた』の後『アモーレ』をはさんで、48年12月に本国で公開されています。

今度の舞台は戦後まもなくのベルリン。
荒廃した市街とそれ以上にすさんだ人心が、12歳の少年の目を通して描かれます。
ひとつ前のエントリー『自転車泥棒』は、まだ親子の切なすぎる姿に涙するゆとりがありましたが、『ドイツ零年』は冷酷にしてドライな現実が少年を押しつぶしていく様に、ただただ呆然とする他ありません。

映画は亡くなった監督の息子ロマーノに捧げられています。
英語版Wikipediaによれば、監督は主人公のエドムント役にロマーノに似たドイツ人少年を探したとのことです。何人かオーディションした後、サーカスを見にいった監督がそこでアクロバットを演じていた少年に注目。オーディションを受けるように勧めてそのままキャスティングとなったとのこと。
演じたエドムント・メシュケ(Edmund Moeschke)は出演作はこの一本。

ベルリンの話をドイツ人が演じているわけですから、本来はドイツ語版で見た方がしっくりくるはずですが、ロッセリーニ監督作としてとらえるとイタリア語でも違和感ないかもしれません。
製作監督脚本ロベルト・ロッセリーニ、撮影ロベール・ジュイヤール、音楽レンツォ・ロッセリーニ。

こちらはBFIによる3部作Blu-rayセットの予告編。

 
 
 

BFI盤やクライテリオン盤の音声はドイツ語のようです。

ロケ地

IMDbでは、

Berlin, Germany
Neue Reichskanzlei, Voßstraße, Mitte, Berlin, Germany
Tiergarten, Berlin, Germany

他に資料がないため、例によってウェブマップを頼りに画面とにらめっこでチェックしています。
間違えていたらごめんなさい。誤りのご指摘大歓迎です。

『戦火のかなた』でもベルリン・ロケのエピソードがありましたが、本作は全編ベルリンが舞台。
英語版Wikipediaによると、1947年8月15日撮影開始。40日間のベルリンロケの後、9月26日からローマのスタジオで室内場面の撮影。

キャロル・リード監督の『二つの世界の男』も戦後のベルリンが舞台でしたが、『ドイツ零年』の5,6年後の連合国側地区での撮影でした。
『ドイツ零年』は撮影場所をチェックしたところ、東西両地区にまたがっているようです。
翌年6月にはベルリン封鎖が行われ1年近く続きますから、その時期だったら事情が違ってきていたかもしれません。

Google Earthの時間スライダーで1945年3月に遡ることができ、参考になりました。
すでに空襲で建物に多くの損壊が見られますが、この後4月から5月にかけての攻防戦で、さらなる破壊が進むことになります。

タイトルバック

空襲と市街戦で瓦礫の山と化したベルリンの街が写し出されます。
日本なら木造家屋は全焼してしまい、焼け野原にぽつんと鉄骨のビルが残っているという絵柄になりますが、こちらはひたすら瓦礫と廃墟です。

3カット目

ワイプから入る3カット目は車載の移動カメラで、ここでタイトルが入ります。
最初に交差点に入って右折しますが、日差しから見ておそらく北向き→東向き。最後に川縁の道に突き当たります。
地形や建物などから可能性が感じられたのがこちらの交差点。

現在ではT字路ですが、昔の空撮では十字路となっていて、映画のような移動は可能です。
ここで正解だとすると、カットの最後に写る橋はこちら。

GrünstraßenbrückeW

映画とは形が違いますが、ベルリン攻防戦の際に爆破されたとありますので、可能性はあるかと思います。
ここはおそらくソ連占領地区。

4カット目

4カット目、右へのパンで最後に写されるのは、国会議事堂W

この画像は1945年6月3日撮影。

パンの最後で右端に写っているのが、ソ連によるこちら↓の記念碑

Soviet War Memorial (Tiergarten)W

1945年11月11日に除幕。
ここはイギリス占領地区でしたが、この場所はソ連軍の兵士が守っていたとのこと。

ソ連映画『ベルリン陥落』(1949)は、クライマックスで議事堂の攻防戦が描かれますが、イギリス地区のためセットや模型で表現しています。
他の場面は実際にベルリンでも撮影しているようですが、ご覧になった方はおわかりの通りスターリン賛美の内容があまりにも香ばしく、チェックするのは敬遠しているところです。

死んだ馬

橋のたもと

橋を渡った後、落ちた石炭を拾うところ。
おそらくこちら。

右手の建物は今でもありますが、橋はなくなっています。

住まい

冒頭エドムントが帰ってくる場面、中盤兄がトラムで戻ってくる場面、ラストなどで周囲が写ります。

中盤で「アレクサンダー広場の近くに住んでいる」とのセリフがあります。
言葉通りだとすると、その近くで地理的条件から可能性が感じられるのはこのあたり。

住まいの前の通りは広場から南東に伸びているAlexanderstraße(アレクサンダー通り)。
こちらだとしても、住まいの手前のT字路はなくなり、周囲の景色も映画の面影はまったくありません。

秤を売る

0:18
紳士と物々交換した街頭。
カメラが右手を向いたとき、背景にカマボコ型の鉄骨組みが見えますが、アレクサンダー広場駅W

カメラ位置はアレクサンダー広場Wの北東側で、最初南西向き。

1937年撮影。
映画とほぼ同じアングル。

1954年撮影。
これも映画とほぼ同じアングル。
少年たちがいたのは一番手前のあたりでしょうか。

噴水

元小学校教師と再会したところ。

Neptunbrunnen(ネプチューンの噴水)W

映画当時は、ベルリン王宮の南側のこの位置にありました。

1903年の日付のポストカード。
映画の最初のカットに比較的近いアングルです。
背後(北西側)が王宮。

1951年撮影。
王宮がなくなったため見通しが良くなった状態。
一番奥に博物館が見えています。

1951年に撤去され、69年に現在の位置へ移設されたとのことです。

この教師、やたら触れてきて性癖は明らか。
映画資料サイトでは「エニング」とありますが、ドイツ人ならHenningかもしれません。

トラムに乗った停留所

0:21
元教師とトラムに乗ったところ。
確証はありませんが、道路構成から見てこちらかもしれません(カメラ北向き)。

Rosenstraße

今ではビルの間を抜ける細い通りになっていますが、45年の空撮では幅がひろく、停留所がいくつか並んでいるのも確認できます。

降りた停留所

元教師とトラムでやってきたところ。
大通りが逆光でとらえられていますが、最後に右端にかろうじて写っているのは、ポツダム広場Wに建っていたこちら↓かもしれません。

Columbushaus(コロンブスハウス)W

画像は東独の暴動が起きた1953年6月17日撮影のもの。
ビルの左端が、映画で右端に少しだけ見えている部分と同じに見えます。

ビルがあったのは、この位置。

1945年7月9日撮影。
映画のカットは、この画像で奥に伸びていく通り(Ebertstraße)を逆向きに捉えているのではないかと思われます。

トラムを降りたのは、現在のマップでこのあたり↓

フォンと名の付く人物をはじめ、いかにも旧第三帝国的男女がたむろしている怪しげな高級住居。
元教師は彼らにとりいることで生計を立てているようです。
入口の庇がアールヌーヴォー的。
場所は調査中。

レコードを売る

セリフ通り、かつてヒットラーの総統官邸だったところ。

まず配置図を先に……
現在のマップではこちら↓のブロックに相当。

東側がヴィルヘルム通り(Wilhelmstraße)、南側がフォス通り(Voßstraße)。

0:26
最初に右から左へのパンで周辺と施設外観が写されます。
東側、ヴィルヘルム通りに面した部分(上掲配置図の18)。

1945年3月撮影。

現在のストリートビューではこういった眺め。

最初に米軍人が見学していたのは、東側の地下壕入口の前(上掲配置図14の南側)。

画像は1947年7月撮影で、映画の撮影時期とほぼ同じ。

続いて米軍が見学したのは、南東にある「栄誉の中庭」(上掲配置図の13)。
エドムントが待機していたのもここで、呼ばれて入っていったのは西端の玄関。

画像は1940年撮影。

レコードの声が響いていた内部。
南側、フォス通りに面した長い「大理石のギャラリー」(上掲配置図の1)。

1939年1月撮影。

地下鉄駅

0:30
アナウンスでは„Zoologischer Garten“W
階段を降りていくショットで、右手奥にカイザー・ヴィルヘルム記念教会が逆光の中にシルエットとなって見えています。
なので階段もホームもおそらく同駅。
階段は既にありませんが、位置としてはこちら↓

1927頃の撮影。
映画とほぼ同じアングルで、左手の建物も映画で写っていたものと同じように見えます。

1957年撮影。
こちらもアングルは映画とほぼ同じ。
教会は半壊状態となり、沿道の建物はすべて新しくなっています。

橋の停留所

0:31
ジョー(ヨー)、クリステルと一緒にトラムでやってきたところ。

Moltke BridgeW

1932年2月撮影。
右手奥が映画で崩落していた橋。
トラムから降りた少年たちは、右手前から川縁に沿ってこの橋まで歩いて行きます。

そばにある駅はベルリン中央駅Wで、その後の夜の場面で闇の中に見えています。

崩落した橋の前は、現在のマップではこちら↓

サッカー

1:04
子供たちに交じってサッカーをしようとしたところ。

この場面から次の教会へのつながりは、嫌が応にも心を揺さぶられます。

 
 

子供たちから立ち去るショットで、背景に教会の塔が見えます。
塔の意匠や地理的条件から、こちら↓かもしれません。

St.-Simeon-Kirche (Berlin)W

周囲の昔の画像があまり見つけられず、正しいかどうかは未確認。
違っていたらすみません。

ここで正解だとすると、サッカーをしていたのは現在グラウンドのあるあたりの南側となります。
当時の空撮ではこの部分も通りが東西に抜けていました。

教会

1:05
屋根が落ちてしまった教会から、パイプオルガンが聞えてくる場面。
教会の外観の他、周囲の道路構成や日差しの向きなども手掛かりとなり、場所が判明しました。

St.-Matthäus-Kirche (Berlin-Tiergarten)W

ここは東側ではなくイギリス占領地区。

こちら↓に映画と同じ状態の画像がありました。

曲はヘンデルの「オンブラ・マイ・フ(Ombra mai fu)」W
余談ですが、キャスリーン・バトルのあのCMは実相寺昭雄監督の演出だったと、Wikipediaで初めて知りました。

ロケ地

 
 

資料

更新履歴

  • 2016/01/27 新規アップ

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