はじめにお読みください
- 特定のエントリーとは関係ない一般的な話題や、管理人へのメッセージなどにご利用ください。
- 一度書き込んだらそれきりです。削除・修正したいときはその旨書き込みいただくか、Contactページ(管理人宛メールフォーム)にてお知らせください。
- 管理人が不適切と判定した書き込みは即座に削除します。ご了承ください。
- スパム対策を強めに施しています。「利用できない」旨表示されたり、書き込んだのに何も反応がなかった場合、すみませんが書き込みはあきらめてください(オイ)。
- Japanese text only.
(2015/05/14 掲示板設置)
コメント
こんなふうに従来のコメントと同じ様に表示されます。
今のところ日時昇順(下の方が新しい)で、1ページ20件まで。古い書き込みは2ページ目以降に送り込まれます。
お気軽にご利用ください。
★書き込みサンプル2
WordPressのコメント機能をそのまま使った簡易なもので、書き込みがただ伸びていくだけです。
書き込みの際は、単純に続けてコメントを送信してください。
URLは自動でリンクがつくようです。
http://inagara.octsky.net/
これを避けるには、hを取るなど工夫が必要です。
ttp://inagara.octsky.net/
★書き込みサンプル3
コメント欄ではWordPressのスマイリーも使えます。
たとえば半角空白を入れてから「:)」や「:-)」「:smile:」と入れるとスマイルマークに変換されます。
🙂
対応表はたとえばこちら。
http://wpdocs.osdn.jp/スマイリーの使い方
最近まるまるっとしたデザインに変わりましたが、これ↑は昔のデザインのままですね。
最近のデザイン変更はWordPress4.2でutf8mb4対応となり、絵文字が使えるようになったためと思われます。
まったく作品に無関係ではないが、ロケ地には関係のない雑談なので掲示板第1号の名誉に預かろうと、こちらに映画に登場する切手と脚本の違いについて。
映画では切手は3枚。
台紙はきれいな長方形で破られた封筒の一部には見えないが左から茶色っぽい(yellow)1854年のスウェーデンで8.5万ドル。緑色(blue)の1894年のハワイ6.5万、同じく緑の手製ガゼット・モルダウ(?)10万で合計25万ドル。交換した大量の切手は10フラン。
脚本では切手は4枚で
yellow one — a Swedish four shilling — called ‘De Gula Fyraskillingen’ issued in 1854.
6.5万ドル
‘The Hawaiian Blue’ and there are only seven left. In 1894
4.5万
the orange one — A two-penny Mauritius — issued in 1856
3万ドル
‘The Gazette Guyanne.’ It was printed by hand on colored paper in 1852
10万で合計は(より真実味みがある?)中途半端な24万ドル
4枚から3枚に変わり一番高価な(多分英領ギアナ)がモルダウに換えられたのは恐らく複製許可が取れなかったのでしょう。
ちなみに昨年世界に1枚しか存在しないとされる1856年のBritish Guiana One Cent Black on Magenta が史上最高額の約9億7000万円で落札だそうです。
映画では切られたが面白いのが交換した切手が9.5フランでレジーは10フラン渡し、お釣りはいらないと言う。
フェリックス氏は私は商売人でドアマンじゃないとお釣りを渡す。
milouさん、掲示板書き込み1号おめでとうございます。
よかったです、書き込みできて。私でもテスト中うまく書き込めなかった事がありました。
なるほど映画に登場したのはシナリオから若干修正されているのですね。後で本文に反映させていただきます。
右端のは英語字幕だとGazette Maldaveとなっていますが、なんでしょうね。文字はキリル文字みたいですし。
9億7000万円とはまたすごいです。なんでも鑑定団の記録は柿右衛門の壺で5億円だそうですが、その倍ですね。
切手商のセリフ、本編もシナリオもどちらも良さげですが、本編のやりとりの方がスッキリしているような気もします。いろいろなパターンで撮影しているのかもしれませんね。
皆様へ
本文のフォントを少し大きくしました。老眼対策です 😉
表示の乱れや崩れなどありましたら、ご利用の環境とともにお知らせください。
『シャレード』の切手については本項目に昇格(?)されたが、まあ映画に関係ない話なので掲示板で引き継ぐとして、3枚目のモルダヴィア(ルーマニア?)の切手について。英語Wikiは非常に詳しいのにルーマニア語はわずか2行だけ、それは別として
Wiki にあるようにキリル文字をローマ字に直すとPORTO SCRISORI (受取人払いの意味?)、PORTO はPOST のミスプリントじゃなくmistake で後にFRANCO SCRISORI に変えられたとある。しかし、その後のローマ字表記になった切手でもPORTO SCRISORI のままで何がミステイクなのか分からない。どうやら当然ながら“受取人払い”ではなく“差出人払い”の誤記ということらしいがgoogle 翻訳でルーマニア語を調べるとscrisori は letters、porto は該当なし(ドイツ語なら郵便料金)、franco は何と free 。ともかくPORTO SCRISORI も PORTO GAZETEI も FRANCO SCRISORI にも受取人や差出人の意味はない。ただpost には“後”の意味があるのでfranco に“先”の意味があれば“後払い・先払い”と無理に解釈できるが、最初期にそのような種類の切手があるとは思えないのだが。
僕も子供の頃には世界の切手を集めていたがジャン=ルイ同様(?)何百枚集めたとか数を競っていた。ちなみにモルダヴィアの切手には国名が記載されていないが本来世界で唯一(Wiki によるとそうでもないようだが)切手に今でも国名のないのがイギリスで、要するに郵便制度がイギリスで始まり最初は国内だけだから国名を表示する必要もなかった。僕が集めていた頃の普通切手はエリザベス女王の顔と金額の数字だけ。カナダやオーストラリアの切手には国名があるが必ずエリザベス女王の顔が付いていた。
僕はロンドンでラッセル・スクエアにあるRussell Court という9階建てぐらいの大きな建物の1階に住んでいたが郵便配達人はベルを2回鳴らしはしなかったがゴムバンドで留めた郵便物を部屋のドアから放り込み床に落ちる音で目が覚めた。(当時は疑問に思わなかったが各部屋ごとの郵便受けはなかったが全室に直接配達していたのだろうか?)
ところで、また『シャレード』でどうでもいい疑問。男たちは当然レジーが金を持っていると思っていたがピーターのような近づき方なら別として殺人すらいとわない強硬な手段に出るなら“パジャマ”まで持ってホテルに長期滞在する必要はないだろう。しかも全員が個室で。もちろん、それでは別のタイプの映画になってしまうが、のどかですね…
昨日は切手だけで更新が終わってしまいました。
mistakeっていったい……
ルーマニア語は全然わかりませんが、Wikipediaの説明もいまいちスッキリしれませんね。レアで手作りでしかも誤記ということで価値があるのかもしれませんが。
プリントゴッコでも作れそうなシンプルな絵柄ですが、これに高値がつくというのが切手の世界もまたディープのようです。
『シャレード』はのどかなのがまた良いですね。主役の2人もスターの雰囲気がたっぷり出ていて、それだけでも楽しめます。
オレンジアゴはさみバトンタッチゲームも2人なら絵になりますし。
そのあと3人が個性的に次々接近してくるという流れもとても良いですね。
子供の頃に集めていた切手は、誰かは忘れたが集めているという子供にあげてしまい手元には残っていないが当時持っていた「切手國名早わかり」というハンドブックが出てきた。発行年は分からないがMSK STAMP LIBRARY:3 というもので定価70円。後部の“加刷で変る國の名前”など図案からすべて手書き。
それを見るとPORTO はオーストリー不足税切手、PORTO PFLICHTICE ウェルテンベルグ官用切手 そしてPORTO GAZETEI ルーマニア モルダヴィア地方、と記載されている。
ルーマニア語はラテン語系統ではあるが地理的にドイツ語やロシア語の影響も強いがやはり PORTO は郵便料金という意味だろう。
今にして思えば映画を含む外国(語)に対する興味は切手収集に起因するようだ。小学生にしてフィンランドが SUOMI だと知ったのも切手からだった。
『サムライ』はパリの東北の端、Belleville あたりが舞台だが
この地区(19,20区)は18世紀からの移民街でパリジャンでも行くのを嫌がると言われる治安的には決して良いとは言えない地域。しかし僕は74年に初めての外国で19,20区に隣接する11区の1つ星ホテルに1ヶ月滞在したので何度か行っている。特にビュット・ショーモンは文字どおり山あり谷ありの変化に富んだ素晴らしい場所で一番好きな公園なのだがデイト・スポットでもなく(?)映画街から遠いので1回しか行ったことがない。
70年代に Belleville に行った頃はアラブ・アフリカ系の街だったが2000年にモロッコに行く前に予行演習にと再訪すると、ほぼチャイナ・タウンに変わっていて驚いた。なんとかモロッコ料理の店で食事はできたが。
2年ほど前に出版された平凡社新書「エキゾチック・パリ案内」を読むと近辺の雰囲気がよく分かります。
「エキゾチック・パリ案内」気になったので目を通してみました。
面白いですねこの本。口絵の写真だけ見ると全然パリの本ではないみたいで。
地図が多いのでそれだけでも行った気になれました。
milouさんの最初の外国はいきなりエキゾチック……というよりはディープな旅だったのですね。
皆様へ
コメントの仕様を元に戻して、ページ分けは無しにしました。
やはり1ページ内でコメントも全部見渡せた方が便利なので(ページ内検索も使えますし)。
問題はこの掲示板ですが、ひたすら下に伸びていくことになります。それほど書き込みがあるとは思えませんので、しばらくこのままで行き、50ぐらいになったらまた考えることにします。
はい。この本は単純に“ここにこんな場所がある”というスポット的紹介ではなく、居ながらならぬ“歩きながら”の書き方なのでSVで確認しながら追いかけるのも楽しいです。匂いはしないがヴァーチャルなら怖い目にも遭わないし??
書いたように最初に1ヶ月いたのが『猫が行方不明』の舞台である11区で観光客が来るのはバスチーユぐらいで特にめぼしいものもない下町。シャンゼリゼ方面には滅多に行かなかったがカルチエ・ラタンは特別としてパリでは主に東部方面を歩き回ったので本に取り上げられた場所も大体足を踏み入れたことはある。
しかもこの本は、しばしば映画を例に出すので映画ファンには面白さも倍増するでしょう。ちなみに著者は清岡卓行氏の息子で今年の3月に「パリ移民映画」という本も出している。まだ実物は見ていないが目次を見るかぎり取り上げた作品はほぼ同一ですが…
『いぬ』の原題である doulos だが(我が辞書には載せているが)確かに日本の普通の辞書には単語そのものが載っていないようで、Google 先生の辞書にも載っていない。辞書に載っている単語では mouchard が警察のスパイや“いぬ”として載っていた。しかしさすがに1980年発行のフランス俗語辞典(田辺貞之助編)には “帽子 / 密告者。 複数(単複同形)で髪の毛 ” と出ている。ところが Larousse のポケット辞典やFlammarion の俗語(小)辞典には載せていない。つまりフランスでも一般的な単語ではないからこそ冒頭で説明したのだろう。
milouさん、情報ありがとうございます。
気にしても仕方ないのですが、フランス語の一般的な単語ではないと言うことでスッキリです。オリジナル?な俗語なのでしょうか。
原作での表現も気になりますが、翻訳されていないようですね。
「エキゾチック・パリ案内」はおっしゃる通りSVとセットで楽しめますね。
チキンなものでたまに海外へ行っても観光客が行くようなところしか行きません。もうSV最高です(汗)
SVはまだ視覚にとどまっていますが、Google先生のことですから、そのうち4DX映画のような体感型のマップが登場するかもしれませんね。
例によって直接関係ないので掲示板の方に書きます。0『ブラック・レイン』クラブみやこ のKPOキリンプラザはロケに使われたようにモダンな(?)建物でキリンのビアプラザなどはもちろん上にはちょっと変わった構造のギャラリーがあって田名網敬一などを見たが小さいホールもあり雷蔵祭はフリーパスを買って通いましたが、さらにその前のキリン会館の時代には戎橋劇場という名画座があり名画座の少ない大阪ではキタの大毎地下劇場とともに映画ファンのメッカでした。僕の鑑賞記録で日時や料金がはっきりしている一番古い一般映画は69年1月6日の『魚が出てきた日』と『スパルタカス』の2本立て200円です。67年5月25日には珍しくヨーロッパの未公開作を上映する催しで『感情の試み』を150円で見ている。この催しではほかにも何本か見たが漏れているようだ。
ちなみに友人にスポーツ新聞の芸能記者がいて撮影前日ぐらいにエキストラに来ないかと誘われたが夜中でもあるし行かなかった。
補足。未公開作なので仮題の『感情の試み』では検索しても引っかからなかったが原題で検索するとWikiで面白いことが分かった。
劇場公開、テレビ放映、ソフト化などもないのに日本語Wiki にも載っている。
パスクァーレ・フェスタ・カンパニーレの監督デビュー作『つかの間の恋心』(別題『恋のたくらみ』)。
載っている理由はサントラCDが発売され新たにタイトルが付けられたから。ちなみに映画は非常に面白かったのだが内容はまったく覚えていない。
このビルは外観は見たことはありますが入ったことはなかったです。
中にはそういう施設があったのですね。
バブリーな頃に建ったビルは、長寿でないものが結構あるような……。
『つかの間の恋心』は全然知らないタイトルでした。
1本150円とか2本立て200円はいかにも60年代のお値段ですね。今は旧作は100円でレンタルできますから、60年代に回帰したとも言えますが……
『ノッティングヒルの恋人』の本屋だが僕にはモデルとなった本屋という意味が分からない。つまり単純に“旅行書専門店”という意味だとして仮に専門店がロンドンにこの書店しかないとしても(実際には僕も何度か覗いたがコヴェント・ガーデンに大型専門店 Stanfords がある)だからどうなの? つまり映画にとって(ギャグでは使われるが)旅行書という必然性はなく料理本でも馬の本でもなんでもいい。例えば店内の商品配置などを参考にしたとしても、特に特徴的な店内でもない。
それはそれとして、2015年のSVではブループラークのようなものが付けられズームアップしても読み取れなかった。ところが記事に追加されたNHKのアルバムを見るとクローズアップの写真があり、まさに
『ノッティングヒルの恋人』のTravel Book Co. は1981年にここで開店した本屋に触発された。外観と内部もそのまま残してあると書いてある(現在の店は2011年開業)。
とはいえ、店構えも内部も映画の本屋とはまったく違う。要するにリチャード・カーティスが常連だった店名を借りた、ということだけなのだろう。
http://www.bookstoreguide.org/2009/05/stanfords-london.html
そうそう初めて映画を見たときから気づいたGoofs でIMDB にもでていないが99分過ぎアナが本屋を訪ねてくる。この時2人の間の机の上に分厚い本が数冊積まれている。最初は青い帯が付いた本で背中はこちら向き(A)。数秒後カットが変わると一番上の1冊以外は背中が向こう(B)、 電話を取りに行く数分後にはまたAに戻り、その数秒後にはBになる。まあ、このようなミスは多くの映画で見られることだが…
書店についての真相は知りませんが、2011年に前の店が閉店になった時は、「モデルになった書店が……」「舞台となった書店が……」とニュースになりました。まあ脚本家が常連で、創作上のヒントとなり、店名も拝借となれば、「舞台」はともかく「モデル」くらいならバチは当たらないかもしれませんね。
映画で有名になってきっと当座は繁盛したことと思いますが、それでも10数年後には閉店ということは、その間日本同様書籍市場そのものが縮小していたのか、あるいはやはりターゲットを絞り込みすぎていたためかでしょうけど(旅行書なんて、一番インターネットに喰われそう……)、よく考えてみたら、もともと繁盛している店だったら脚本家もアイデア得られなかったかもしれませんね。
全然関係ありませんが、この掲示板はひたすら1次元的に下へ伸びていくので、昔ながらの逆順(新しい書き込みが上に来る)が良いかなと思っているのですが、他のページもコメントが逆順になってしまうので、どうしたものかと考えているところです。
日本に旅行書専門の本屋があるかネットで調べたところ皆無ではないが映画同様に小規模な店ばかり。実際に行ったことはないし店の特徴は分からないが対象を特化すれば小規模にならざるをえないだろうし在庫的には恐らく大型店のほうが多いだろう。本屋ではないが日本交通公社旅の図書館はさすがに規模は大きそう。
それにしても映画の力は偉大というかTravel Book Shop で画像検索すると映画およびモデルとされる本屋の写真ばかり。
もちろん Stanfords の写真もあったが、この本屋は1901年開店の世界最大の旅行書の専門店らしい(といっても売場は2フロアのみ)。とにかく場所がいい(映画街に近い)ので僕もロンドンからどこかに旅行するときは立ち読みに行った。
ところで世界最初の旅行書(ガイドブック)を出版したのはベデカー社で1827年に設立され1835年から出版している。
映画の『十二夜』はシェークスピアの原作と違い時代設定は19世紀になっている。
面白いことに映画でセバスチャンはガイドブックを持ってイリリヤの観光をするが、その本は当然(?)ベデカー社のもの。しかし本のアップが入りFrom Randazzo to Mistretta と見えるが、どちらもシチリアの地名なのでイリリヤはシチリアということで確かに音も似ている。
ところで掲示板の仕様ですが一般的には“新しい書き込みが上”のほうが分かりやすいかもしれない。しかしこのサイトの場合、立ち寄る人は恐らく何かの“ロケ地”を知りたくて検索して引っかった、つまり作品が主なので記事の頭から見て“ついでに”コメント欄も見る、という流れだと予想され、その場合は時系列に従い必然的に古い方から見るし、そのほうがいいと思う。
そして僕のように、このサイトが気に入り常時見るようになれば特定の作品からではなく“最近のコメント”や“最近の更新”を最初に見る。
掲示板は特殊ではあるが、例えば最近のコメント欄に掲示板(18)とあり、投稿者の名前をクリックすれば該当個所(つまり最新のもの)に飛ぶから“古い書き込みが上”でも何ら問題はない。
バナー(?)の掲示板から入れば、その人に興味のない雑文を延々と読むことになり都合が悪いかもしれないしい掲示板の最初から全部を読みたいなんて人は少ないだろう。
であればヒマツブシに見るのではなく目的を持って掲示板に行く人は恐らく“書き込む”ためだろう。だから順序は今のままでいいが“初めにお読みください”のあとに“掲示板に書き込む”リンクを付けて最後に飛ぶようにすればいいのではないかと思う。
なるほど、これは明快ですね。
アイデアいただきました。表示順はそのままで、「掲示板に書き込む」ボタンつけてみました。
スマホやタブレットからでも大丈夫なようです。
ベデカーは『眺めのいい部屋』ではじめて知ったかもしれません。
実物も見たことはありませんが、特に昔のものだと空間だけでなく時間旅行もできそうですね。Google ストリートビューも、このまま経年の画像を蓄積していけば、歴史書そのものになってしまうかも?
そういえば『ノッティングヒル』のエントリーを追記していて、久々にWorldwide Guide to Movie Locationsのサイトを見てみたら、なんとうちのサイトみたいにGoogle Mapsを使うようになっていました。
http://www.movie-locations.com/movies/n/nottinghill.html
すべての道はGoogleに通ず。
居ながら様、
なかなかゆっくり拝見できないのですが、
ロケ探訪楽しませていただいております。
ありがとうございます。
自分の映画コレクションと、このサイトを併せて観ることがありまして、その度ごと、
あー、そうなんだー!と、発見の連続です。
とりわけ、今更ながら凄いのは、居ながら様の
多ジャンル、全方位的な観賞実績と、
的確かつオリジナルな映画評論の合わせ技で、
これを何年も積み重ねて来られていること。
驚愕致します。
ロケ探訪をひとつの視点として映画を観賞するという選択肢が元来ありませんでしたので、
まさに目からウロコ状態。
加えて、強力なコメンテーター☺の方々のご意見も素晴らしい。
私、たまたま数年前から仲間と自主映画制作も始めていて、企画兼役者をやっており、ロケなどいきますので、ロケの捉え方など全般にわたり、このサイトから勉強させていただくことも多々ございます。
長々すみません、
改めてではありますが、
今後も永く永くお続けください。
楽しみに致しております。
たかマックィーンさん、こちらでも書き込みありがとうございます。
過分なお言葉いただき、恐縮です。
もともとWordpressの勉強のためにはじめたところもあるのですが、映画好きに加え、建物好き、マップ好きの部分がどんどん表に出てきて、気がつけばへんてこりんなサイトになっていました。
できるだけ偏らないようにしているつもりですが、このままポックリいくと最後のエントリーが『冷凍凶獣の惨殺』やら『原始怪人対未来怪人』になってしまいますので(笑)、それはさすがに避けるべく頑張って長生きして更新し続けようと思っています。
自主映画の方は全然手を染めたことはありませんが、ロケもされるとのことで、ご苦労が多いのでしょうね。
拙サイトがそれほどお役に立てるとは思えませんが、ちょっとした息抜きにまた遊びに来ていただければ幸いです。
戦後すぐから始まる「ふらんす」という権威ある(?)雑誌があり、たまに図書館で借りるのだが先日借りた2014年8月号を見ると最初のページが毎号連載の“セーヌにかかる橋”でナショナル橋が取り上げられている。その記事に引っかかる文章があったので引用すると…
ナショナル橋は「場末」を意味する符丁として広く認識されるという不名誉な象徴にもなっている。
ところでこのナショナル橋=場末という当時の人口膾炙は、…『サムライ』によるところが大きい。…舞台として選ばれたのが、殺伐とした印象にうってつけの斜陽化したナショナル橋周辺であった。
???一体この橋と『サムライ』にどんな関係があるというのか。
ナショナル橋は12区の西端いわゆる20区外に最も近い橋で“場末”という点では共通していると言えなくもない。しかし映画の舞台どころかナショナル橋周辺など一度も登場しない。ジェフの住居やメトロの追っかけっこは遙か離れた北西の端19区であり、それ以外はシャンゼリゼなどパリ中心部。
かろうじて雇い主から狙われる跨線橋が13区でナショナル橋に通じる場所だが、この場面だけで“舞台”や“『サムライ』によるところが大きい”とは、あきれかえる。
東! 東!
西端や北西って、まるで逆。地図の右は東ですね。人の文章に文句を付けるなら気をつけろ! スミマセン…
milouさん、その記事ホントに疑問符がわきますね。
確かに跨線橋は関連ありますけど…
と自分で『サムライ』のエントリー見返したところ、ピンをまとめて表示するロケ地マップがないと結構不便なことに気づきました。ひとつひとつのSVを開いて場所を確認できても、全体図がないとぱっと見どのあたりなのか把握できませんね
ピンが多いものや、テーマでまとめると面白そうなものはロケ地マップを最後に掲載していますが、これからは全部入れたほうが良いかもしれません。
本当は全エントリーを集約した壮大なロケ地マップがあればより便利なのでしょうけど、ピンの数の制限があったり、整理が大変だったりで、実現は難しそうです(整理して「マップデータ」でまとめるつもりでしたが、作業量が想像以上だったので挫折中…)
『鬼火』の Hotel du Quai Voltaire ですが泊まったのは86年だが掲載の写真は79年1月でした。バーで飲みはしなかったが部屋やバーの写真は撮ったはずと調べて思い出したが、実は、この日は最終日でチェックアウトしてすぐバスでオルリーに向かったのだが、もうフィルムもないしカメラもいらないしと、部屋でやればいいのにチェック会おうとした後のホテルの表で簡単に荷物の入れ替えをやった。その時カメラを横に置いたまま忘れてしまった(しかも友人に借りたオリンパス・ペン)。そういうわけで泊まったときの写真は1枚もないのです。もちろんフィルムは10本近く持って行ったのでイタリアなどのほかの写真は無事でしたが…2002年はパリで多分スリにやられ2009年にはヘルシンキの空港でも置き忘れ、どうもカメラ運(?)が悪いようで現在は1台も持っていません。
74年冬のパリ…
押尾さんがパリに行ったのが74年冬とのこと。僕も同じ年の冬だが冬と言っても年末も年始もあるが調べると僕は2月26日に羽田からオルリーに向かっている。ただAFだったかどうかすら覚えていないが多分そうだろう。
当時は外貨も完全自由化ではなくパスポートを持って銀行に行き銀行が売却金額や承認番号をパスポートに書き込むのだが不思議なことに僕のパスポートには75年と76年しかない。74年は(知らずに)違法に日本円を持ち出したのだろうか??
ちなみに当時のパリはオイルショック直後でメトロのホームも照明が半分で暗く寒い印象が強い。ポルノ解禁で大画面で『バルスーズ』を見たときはポルノまがいの場面(カメラアングル)に驚いた。
最初僕はヨーロッパを周遊しようとユーレイルパス(当時は写真付き)も買って行ったのだがパリについてPariscop(e)を買うと…本などで名前は知っているが日本では見ることのできない “名画”が目白押しで結局1ヶ月間パリから離れられず毎日3,4本の映画を見ていた。ポランスキー特集など毎日通ったので顔なじみになり最後は顔パスで入れてくれた。
ちなみに当時フランス語は超初心者レベルで当然映画を見てもほとんど理解はできないが“見たい”という欲望のほうが強く、今後毎年来るだろうと帰国後勉強を始めたがカッコよく言えば映画館でフランス語を覚えたようなものだった。
一応日帰りのブリュッセルと行ってみたかったヴェネツィア には2泊3日で行ったが初めての海外で言葉も要領も分からず飛び込みでホテルに泊まる勇気がなく、現在は(日本でも)皆無だろう夜行列車の普通2等席だった…
帰国直前に友人がツアーでやってきて到着日の朝ホテルまで迎えに行きヴィル・ダヴレーに連れて行った。僕は1ヶ月いたから地理なども掴んでいたが着いたばかりの彼は、どこを歩いているかも分からず疲れるだけ。それでも当然映画好きの彼は一日中連れ回されたあと夜8時に1人でシネマテークに『めまい』を見に行ったが、さすがに疲れで爆睡したとのこと。
milouさん、画像の©表記、86年の方にしてしまってすみませんでした。
ホテルの画像、以前いただいたはずなのに見当たらなくてすごく焦りましたが、アルバムが「パリ」ではなく「ホテル」の方で見つけてほっとしました。
それにしてもカメラ運悪すぎですね。
milouさんも74年でしたか。その時はフランス語が超初心者というのが結構意外でした。最初からバリバリだと思っていたものでして。
またまた訂正。雑誌 “ふらんす”今年のフランス映画祭レポートがある9月号を借りた。それを見ると戦前の号の説明がある。あれっ? と思って裏表紙を見ると 前回ちらっと見た “昭和21年” は第三種郵便物認可の年で第90巻9号9月号(666じゃないね)、つまり創刊90年、そんなに古い雑誌だとは思いも寄らなかった。 何しろ老眼で細かい文字は見えくて…
話は変わるが先日テレビで 『オデッセイ』だったかのロンドン・プレミアの映像を見たが、やはり会場は Odeon Leicester Square 。今日見た 『アルトマン…』の中に登場する『ゴスフォード・パーク』のプレミアもやはり Odeon Leicester Square だった。
ちなみに99年のロンドン映画祭の時、この会場で『海の上のピアニスト』を見たのだが上映開始直前に杖をついた男がやってきて僕の隣に座った。何とマイク・リーだった。少し話し映画の感想を聞かれたが彼の非常に嫌いな映画で上映中もブツブツ文句を言っていた。
ロンドンでプレミアはOdeon Leicester Squareがやはり定番なのですね。
マイク・リーが『海の上のピアニスト』にブツブツ言っていたのいうのは、ウケました。いかにもそんな感じですね。
全然関係ありませんが、2,3日前、サイトが「データベース接続エラー」を頻発して全然開かないことに出先で気づきました。あせってスマホでメンテしましたが、Wordpressのプラグインのひとつがおかしくなっていたようでした。
掲示板でお知らせしようと思いましたが、同じシステムで動いているのですから、掲示板も開くわけありません。ア○ですね。
というわけで、サイトに不具合があった時はできるだけその日のうちに直すようにしますので、時間をおいてからまた開いていただければ幸いです。
“データベース接続エラー” は過去にも何度か発生していました。しかし時間をおいてアクセスすれば直っているので特に不都合はなかった。
あるいは開くまでに異常に(?)時間が掛かったこともあるが原因がどこにあるかは分からないし気にもしない。
まあサイト管理者としては不具合が発生したら大慌てするかもしれないが…
ちなみに、ごくたまにスマホでアクセスするがページが崩れない(?)のに感心しています。
利用しているレンタルサーバーが半年か1年ぐらい前に、同時接続数を制限するようになり、同エラーが起きやすくはなっていたのですが、今回のエラーは別で結構重篤でした。ひとつのプラグインが原因であることがわかり、それを完全にはずしたら直ったので、これで大丈夫かなと思います。
スマホで表示がくずれないのは、「レスポンシブ」とか言うのですが、そういう設計で作っておくと、スマホ用のサイトを別に設けなくてもPCでもスマホでもどちらでも正しく表示できるようになります。今時スマホやタブレットに対応しておかないと……というところですね。
ウェブサイトを見るだけでしたら、自分もPCではなくタブレットかスマホを使うようになってしまいました(もちろん寝っ転がって……どんどん人間がダメになっていくという……)。
映画に直接関係のない話だが『ファール・プレイ』では「ミカド」の音楽が結構長い間流れる。「ミカド」の作者はギルバート&サリヴァンだが、事実かどうかは別としてギルバートの書斎の壁に掛けられていた日本刀が突然落ちてきて「ミカド」のアイデアを思いつき、ちょうど開催されていた日本人村を訪れ当然『ファール・プレイ』にも出てくる有名な”Three little maids” を招いて英国人俳優に仕草を真似させた…
この辺の事情はマイク・リーの『トプシー・ターヴィー(未)』にも詳細に描かれているのだが、なぜか今年その日本人村に関連する本が相次いで出版された。
7月に祥伝社から出たのが日本人村に直接は関係しないが村田寿美「幕末の下級武士はなぜイギリスに骨を埋めたのか」でブライトンの教会守として生涯を終えた下級武士ジョン・近藤筆吉の話。
8月には藤原書店から小山騰「ロンドン日本人村を作った男」が出版され謎の興行師タナカー・ブヒクロサンについての詳細きわまる内容で図版も多く非常に面白い。
ロンドン日本人村については83年に朝日新聞社から出た倉田喜弘の「1885年ロンドン日本人村」という名著があり、マイク・リーは来日したとき倉田氏にも面会し『トプシー・ターヴィー』に登場する日本人俳優全員に、この本のコピー(倫敦に到着する部分まで)を渡して読ませている。
もう1つ番外編として2006年に祥伝社から出た高橋克彦の「倫敦暗殺塔」という非常に面白い歴史推理小説がある。恐らく倉田氏の本に刺激され書いたと思われるが、登場する多くは実在の人物で、例えばロンドン日本人村は1885年1月10日に開業し4ヶ月で25万人も動員したが火災が発生し中断される。この時に判別できないほどの黒焦げ焼死体が1つ発見され版木師の稻見鹿之助と判明するのだが、小説では焼死の理由が解明される。事件の発端は英国軍人が倫敦塔で殺され持っていた暗号文から井上馨など政府の要人の陰謀にからむ殺人事件を描いたもの。
ともかくジャポニズムと呼ばれることになる幕末から明治にかけての軽業を中心とする日本人の見世物が世界中でもてはやされたわけだが当然それらを現地で見た日本の政治家や知識人は日本の恥として否定したのだが「ミカド」は世界中で大ヒットし日本にもやってきた。ただし“ミカド”という名前を使うことは許されずタイトルは「Three little Maids from School」として上演され時代も変えられミカドも殿様などに変えられている。
milouさん、マイク・リー監督なら一定のファンがいそうですけど『トプシー・ターヴィー』も日本ではソフトが出ていないようですね。
紹介していただいた本、読んでみようかと思います。
ジャポニズムも、美術品が渡って印象派に云々というのはよくききますが、現地へ出ていって人気を博した軽業師たちが立役者だったというのが面白いですね。
私「ミカド」は『ファール・プレイ』ではじめて知って驚いたものでした。
舞台にしろ映画にしろ、日本ではちゃんと紹介されていないような。やっぱり「ミカド」というタイトルとか微妙な内容がまずいのでしょうか。
それにしては、昔赤坂にミカドというキャバレーがありましたけど……
海外渡航のためのパスポートを初めて発行されたのが隅田川浪五郎など18人の軽業・曲芸師で1866年12月にサンフランシスコに向かった。しかし最初に出国したのは別の軽業・曲芸師12名で上海(最終目的地はヨーロッパ)に向かった。その数ヶ月前にも旅券を持たずサンフランシスコに向かった芸人の一団もあった。もちろん彼らは自分で行ったわけではなくアメリカやイギリスの興行師に雇われてだが幕末に大量の芸人が世界に出て行ったわけです。
ちなみに、大きな声では言えないが(?)ひとまず “噂話”と言うことで…
『トプシー・ターヴィー』はマイク・リーで大儲けした某配給会社が(今では珍しくないが)完成前からツバを付け配給するという “約束” をしていた。
ところが内容が(マイク・リーは詳細に調べた事実に基づいて作っただけだが)「ミカド」を上演するまでの舞台裏で、西洋人が演じる日本人か中国人か分からない奇っ怪な日本人だらけなので日本の観客が嫌悪感を持つかもしれない、これでは商売にならないと判断し契約しなかった。
マイク・リーは二度とその配給会社には回さないと激怒した…言う話。
NHK-BS では3回まで放映できるはずだが『トプシー・ターヴィ』は1回しか放送されななかった、ちなみに日本人村に関する知識がなかった(調べなかった)ため字幕では年代の違う “万博”になっていた。
“噂話”なるほどですね。
これが『蝶々夫人』なら日本人も慣れていて、案外受け入れられたかもしれませんね。ビジュアル的には似たような気もしますが。
『ミカド』は音楽も楽しいし、へんてこりんな部分はものの数分で慣れるので、もう少し日本で浸透していても良いのにと思います。
『トプシー・ターヴィ』はもう放映権は残っていないのでしょうか。BSでやってくれるなら、ぜひ見たいです。
皆様へのお知らせ
「データベース接続エラー」を避けるため、数日前からシステムを少し変えています。
パソコンやスマホで表示に不具合がありましたら、ご遠慮なくお知らせください。
これでも「接続エラー」が収まらないようでしたら、サーバー移行も考えることにします。
Google、「Picasa」を「Googleフォト」に統合、5月1日に終了へ
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1602/13/news024.html
orz……
当サイトでは画像をいったんPicasa ウェブアルバムにアップしてからリンクを作って呼び出していますが、既存の画像やアルバムへのリンクがそのまま使い続けられるのか、見守り中です。
GoogleフォトがGoogle+から独立して、Googleの画像サービスが2本立てになった時点で嫌な予感はしていましたが、いよいよその日が来てしまいました。
サイトの方はただ今多忙なため、更新をお休み中です。
復帰まで今しばらくお待ちください。
居ながらシネマ さん、はじめまして。
たった今拝見して、感動のあまりさっそく書き込みさせていただいております。
私の大好きな「個人教授」を検索していて偶然こちらを拝見してビックリしました!
15歳の頃に映画館で「個人教授」を見てからずう~っと、いつかパリに行ったらあのアパートやホテルを見てみたいと本当に思っていました。
でも、映画だし、本当はパリじゃない場所があったり、セットだったりするんだろうな~。それに、もうずいぶん前の映画だから、今更行っても、もう無いかもしれないし。
でも、日本と違って昔の建物は残っているだろうから、ひょっとしたら、見れるかもしれない。でも、どうやって捜せばいいんだろう~って、ずっと思っていました。
それなのに、私の願いが叶いそうな事をしてくれているサイトがあるなんて!
夢のようです^0^
パリは勿論、外国へは一度も行った事がない私ですが、いつかパリへ行って、「個人教授」のロケ地を巡るのも夢じゃない、と思えるようになりました。
本当にありがとうございます。
barbie61さん、いらっしゃいませ。コメントありがとうございます。
『個人教授』のエントリーお楽しみいただけたようで、うれしいです。
情報や画像が詰まった内容になっているかと思いますが、私はチョイチョイとウェブマップを調べただけで、多くはいつも情報を提供してくださっているmilouさんという方のおかげです。まさか30年前のあのホテルの中を見られるとは思いませんでした。
もちろん実際にいらっしゃるに越したことはないのでしょうけど、海外もなにかと物騒ですし、セーヌ川も氾濫のリスクがあるわけで、仮想的にネットで旅をされるのも十分アリではないでしょうか。
……といったコンセプトで続けているサイトですので、機会がありましたら、またぜひお立ち寄りください。
野々村夏子宅はどこにあるのでしようか?昔Googleアースで、見つけた事が有りましたが、今は、わからなくなりました。
書き込みありがとうございます。
「野々村夏子宅」とありますが、何のことだかまったくわからず自分のサイトを検索してしまいました。
『世界を賭ける恋』 (1959)のことですね。
これは個人宅と思われますので最初から探していませんし、見つかったとしても当該エントリーに書くことはなかったと思います。プライベートな物件の扱いについては、それなりに気を遣っていますので……。
あしからずご了承ください。
今週サーバー移転を行いますので、表示が乱れたりつながりづらい状況が生まれるかもしれません。
ご了承ください。
またPicasaアルバムが完全に使えなくなったため、画像のサムネイルをクリックしてもエラーとなってしまってます。
これも早急になんとかしたいのですが……
旧Picasaアルバムは「アルバムアーカイブ」という場所に格納されていて、画像とキャプションは引き続き閲覧可能です(コメントはすべて失われています。書き込みくださった方、申し訳ありません)
またGoogleフォトとしても開くことが可能ですので、最小限の手間で従来のように表示できるようにならないか、あれこれ試してみます。
→ 8月12日追記 昨日サーバー移転しました。
『コロニア』を見たら例の陸橋(?)が一瞬現れた。『コロニア』の舞台はチリだがブエノスアイレスでも撮影されている。あの陸橋で特徴的なのは石畳と路面電車のレールだが石畳とレールが残っている場所は San Telmo 地区に多いらしい。
『ブエノスアイレス』のBar Sur でも店外の石畳が印象的だったがSVを見ると、まさにBar Sur の北側 Estados Unidos には石畳とレールが道の端に残っていて Nueve de Julio の大通りまで続いている。あの陸橋は恐らくフォトジェニックな場所として有名だと思われるが画像検索でも見つからず未ださまよっている…
milouさん、今スマホからなのでマップでは示せませんが、口で?言いますと、あの陸橋はおそらく コンスティトゥシオン駅のすぐ南側に架かる、イトゥサインゴとかいう通りのものです。
さすが最強の居ながらシネマ、確認しました正解ですね。
最初は橋だから河の上だろうと探したが見つからず、河ではないかもとは思っていたが…
両方の映画ともパラカス通り側から見たものだが、すでに端の入口あたりの石畳が少なくなっているので線路跡も消えてしまう運命でしょうか…
ここなら Bar Sur からも遠くないし納得。
もしかしたら駅には行ってるかも知れない
milouさん、駅のそばだったので、もしやmilouさん、生でご覧になったことがあるかも?と思ってしまいました。
ここは雰囲気ある場所ですが、線路はもう使われていないのですね。
Picasaウェブアルバムの終了にともなう画像のリンク切れ(サムネイルをクリックすると404エラーとなる)について。
旧Picasaは現在「アルバムアーカイブ」なるところに保管され、閲覧可能となっています。
とりあえず、昨日更新した『刑事フォイル』と、Picasaを使った最後のエントリーである『恋するガリア』でこちらへのリンクに切り替えてみました。
http://inagara.octsky.net/keiji-foyle
http://inagara.octsky.net/koisuru-galia
サムネイルをクリック(タップ)するとアルバムアーカイブの画像単ページが開き、下にキャプションが表示され、さらに上部の「マルi」ボタンをクリックすると詳細が表示されるるということで、これは良さげ……
……なのですが、スマホで見たときにピンチアウトで拡大できないのが、結構痛かったりします。たいていの場合、拡大して見たいからタップするわけですから……
旧Picasaの画像は別にGoogleフォトからもアクセスできるようです。
こちらの場合はピンチアウトできるのですが、Googleアカウントにログインした状態で見るとアルバムへの参加ボタンが表示されてしまい、閲覧した人が結構ドキドキしてしまう恐れがあります(以前はボタン表示ではなくプロンプトだったのでそれよりは改善されています)
というわけで、旧Picasaの画像は上記のようにアルバムアーカイブへのリンクに切り替えていくことにしました。スマホで拡大できなくても、Googleの仕様ですのですみませんがあきらめてください……
まったく無関係で下らない余談だが「六○年代ゴダール」は690ページで厚さ4センチ重量が1.1キロ税抜き9800円という大部。たまたま友人がフランスのオリジナル本を持っていたので借りた。こちらはA4より大きい変形版(24×29)で380ページ厚さ3.8センチで59ユーロ(約7000円)だが重量が何と2.2キロ!! 本はベッドで読むのが基本の僕だが絶対無理で持ち歩くのも不可能に近い。
さてちらっと見た内容だが、本文は全訳のようだが図版などはかなりカットしたようで特に(日本版P207のような)撮影段取表が多く省かれている。当然これは撮影場所や日時などが記載され何時にどこに集合とか店の予約とかロケ地探しには大いに参考になる資料。まだ眺める程度で読んではいないが、まともに読めば10年以上掛かりそうで生きてるうちに読めるか、なんて思うが翻訳者の奥村氏も翻訳に3年掛け出版前に他界…
ただ奥村氏の長年の功労は評価するが、原音に近いとしてもバターユやヴェルサーユという表記には読んでて違和感を感じてしまう。
関係ないが彼は最初は映像作家で初監督作の『猶予もしくは影を撫でる男』も67年の草月実験映画祭で見ているが内容は覚えていない。
前の続きですが以前『男性・女性』で書いた映画館の場面は撮影5日目の11月26日、もちろん Splendid Gaite :3 rue Larochelle a hauteur du 31 bis rue de la Gaite .Tel:DAN 57-43 。主役級の4人の集合時間は9時だがトイレにいる男や切符売りは8時集合になっている。こんな些細なところまで見ていたら、やっぱり生きてるうちに読破は無理そう。
いつ返却すればいいか判断に困るが買う気にまではならず…
milouさん、返信遅れてすみません。
その本、手にとってみましたが、確かに重いですね。立ち読みで手首痛めそうになりました……
トリュフォーがヒッチコックにインタビューした本の方もだいぶ重かった記憶がありますが、それに匹敵するでしょうか。あちらは座って読める書店で座り読みしました(買いなさいって)。
見てみたくなったのはお書きになったp207というのが気になったからなのですが、なるほどこういった資料がもし満載であれば、さらに使える資料となったことでしょうね。
(裏表紙は『軽蔑』の香盤表でしょうか)
拙サイトでゴダール監督作はまだ3本しか扱っていないので、資料的には手元においておきたいところですが、1万円するとなると……なにより場所とりますし……。
なんでサンテ刑務所に3回も行ったのか分からないが、もちろんルパンがらみで行ってみたかった(本当は中に入りたかった??)。
ところが現在からっぽにして改装中で年1回見学ツアーがあるようだ。
http://carotte-rend-aimable.blog.so-net.ne.jp/2014-09-21
今年2泊4日ぐらいで行ってみようかな…
文字どおり真向かいにあった À la bonne Santé は何本かの映画に登場し、たいていは出所した人間が迎えに来た友人と入っていく。僕が行ったときに、それらしき人はいなかったが…
多分30分もいなかったが偶然門が開く瞬間に遭遇し急いで写真を撮れて大満足。
ギャング(?)と同席したことはないがパリでは現在も飾り窓はないが何カ所か立ちんぼの女性が集中している場所があり入った大衆食堂で隣のテーブルにいたお姉さんに煙草の火を貸したことはある。
milouさん、改装中だから最近のSVで中を覗けたのですね。
目の前のカフェは映画にも登場しているとのことですが、残念ながら自分の記憶にはありませんでした。
2泊4日って弾丸もいいところですが、きっとmilouさんのことですから、飛行機の中でも映画見まくるのでしょうね 🙂
『皆さま、ごきげんよう』を見たら本物(?)のSaint Jaques 駅が出てきたが、もちろん『シャレード』とは何の関係もない高架のようにしか見えない地下の駅
同じネタ(?)ばかりで申し訳ないが今年1月23日に近代日本演劇の記憶と文化シリーズ第5巻「演劇のジャポニズム」という本が森話社から出た。
それによると「ミカド」に登場する“宮さん宮さん”の歌は当時の日本では忘れられた存在で「ミカド」がきっかけで“憲法発布を祝う歌”として全国に広まったらしい。
以前書いたように日本で発行されたパスポートの第1号から27号までが3つのグループの軽業曲芸師の一団だが明治末期までに1000人もの軽業曲芸師が海外に渡り、かのスタニスラフスキーもアマチュア時代に「ミカド」を上演し、その時に日本の軽業師を呼び寄せ“歩き方、起居、お辞儀、踊り、扇の使い方”をまず習ったという。ロンドンの日本人村は一度に100人近い日本人の“実物”が見られる貴重な機会であり「ミカド」が西欧社会に与えた影響は計り知れないほど大きいようだ。
戦後だが藤原歌劇団の「蝶々夫人」もミラノ・スカラ座やニュ-ヨークのMET でも公演するほどの人気だった。もちろん例えば長崎が舞台なのに背景に富士山があったりと“純日本的”なものではなく“なんちゃって”な面が多いがプッチーニの音楽に“純日本的”なものは合わず、あえて興行的にもジャポニズムという“西洋が見た日本”を前面に出したようだ。
milouさん、おはようございます。
宮さんですが、そうだとすると海外でヒットしたことで国内でもブレイクした先例となりそうですね。
ただ、今なら単にメロディの剽窃となりサリヴァン大炎上したかも 😉
藤原歌劇団の件もなるほどですね。
なんちゃって含めてそれはそれでひとつの作品世界ですから、あえて世界観を壊す必要は無く……
仮にフランスの劇団が日本でベルばら上演したとして、誰もリアルさは求めないわけで……
はじめまして
ダーティーハリーのエンディングの場所を探していましたが
画面が引いていくラストシーンで、後ろの山、後ろの高速道路の位置、高速から降りる道からの西からの道の先の池。
バッチを投げ捨てるシーンのダーティハリーが建っていた場所は
ここだと思います。非常に参考になりました。ありがとうございます
37°56’44.91″N122°30’35.89″W
ditさん、いらっしゃいませ。
『ダーティ・ハリー』久々にラストを見返してしまいました。何度見ても面白いですね 🙂
ハリーがバッジを捨てた場所ですが、ご指摘の座標ですと、入り江のようなところ(Google Mapsでは船が浮かんでいる)の北西の端(=現在大きな駐車場の北東の端)となるかと思いますが、この場所は、ラストでカメラが引いていくときに、立ち去るハリーの奥に見えているので(駐車場や埠頭は映画ではまだ更地)、ここではなくもう少し北東(ラストカットでは手前)に進んだところではないでしょうか。現在池は見当たらず、そのためエントリー本文では埋め立てられたと推測しました。
モンタルバーノで検索していて辿り着きました。なんて素晴らしいサイトがあるのかと感動しています。これから、少しずつ拝見します。有難うごさいます!
フィリフヨンカさん、書き込みありがとうございます。
モンタルバーノは今AXNミステリーでヤングを再々?放送中のようですね。
本家も未放映分があるはずで、そちらも早くと思っています。
サイトの方は、涼しくなったら更新を再開するつもりですので、またぜひ遊びにいらしてください。
ネット検索をしていてたまたまやって来ました。素晴らしいサイトですね。これからも是非続けて下さい。楽しみにしています。ちなみに私の検索ワードは「ひまわり」でした。
(^^)
コーイチさん、いらっしゃいませ、コメントありがとうございます。
マニアックでへんてこりんなサイトですが、こうしてお褒めの言葉をいただけると、励みになります。次はどんな検索キーワードで来ていただけるか、楽しみにお待ちしています 🙂
マンマミーアのロケ地おねがいします!
高橋元治さん、コメントありがとうございます。
『マンマ・ミーア』今なら発声自由の応援上映があったら盛り上がるでしょうね 🙂
景色もきれいでしたので、そのうちとりあげるかも??
お急ぎの場合は、きっとIMDbやWikipediaその他ネットにいろいろ情報が出ていると思いますので、そういったところを参照してみてください。